「今後の労働時間法制について検討すべき具体的論点(素案)」に対する意見
2006/11/24
「今後の労働時間法制について検討すべき具体的論点(素案)」
に対する意見
06年11月24日
日本労働弁護団
幹事長 鴨 田 哲 郎
はじめに
厚労省は、11月10日、労政審労働条件分科会に、これまでの討議をふまえてとして、労働時間制度「改正」についての「素案」を示したが、本意見は、素案の中に示された「自由度の高い働き方にふさわしい制度」(新・適用除外という)を中心に、意見を述べるものである。
第1 新・適用除外は容認できない
1 二分論の根本的な誤り
「素案」は、前文で「長時間労働を抑制しながら働き方の多様化に対応するため」と言いつつ、相も変わらず、「時間外労働削減」の対象となる通常労働者と新・適用除外の対象者や管理監督者を分け、前者には、ほとんど実効が期待できない「法制度の整備」を提起し、後者にはほぼ全面的な適用除外を提起する。当弁護団が既に指摘したように、現在、企業実務において管理監督者あるいは裁量労働者と処遇されている労働者は過大な業務量と重い責任、そして成果主義賃金制度の下、無限定な労働を強いられ、多くが心身共に疲弊しており、企業側の見通しですら、今後、脳・心臓疾患や精神障害の危険が高まるとする割合が7割を超えている。
「素案」の二分論は、この重い事実を全く無視するものであって、到底許されない(なお、新・適用除外者に対する健康確保措置に実効が期待できないことは後述)。
2 適用除外の本質は不変――名で体を隠すネーミングの変遷
「素案」は、従来の自律的労働なる用語を捨て、「自由度の高い働き方にふさわしい制度」なる新たなネーミングをなした。何度目のネーミング変更であろうか。名は体を表すではなく、名を以て体を隠す類であり、「袈裟の下の鎧」の本質は変わらない。
どんなにネーミングを変えようが、既に適用除外となっている管理監督者――そのルーズな運用と全く監督権限を行使しない厚労省の姿勢に対する何らの反省も示されていない(なお、日本労務研究会「管理監督者の実態に関する調査研究報告書」参照)――に加えて、新たに適用除外を拡大するという本質・狙いには何の変更もない。
3 適用除外拡大の必要性は全く示されていない
当弁護団は、適用除外者拡大の立法事実、根拠を具体的に示すべきであると何度も強調してきた。しかし、相変わらず、「働き方の多様化(への)対応」など抽象的文言が舞うのみである(なお、なぜか、今回は「自律的」なる用語は一切使われていない)。
導入論は、無駄な拘束を受けているとか、労働時間の境界があいまいだとかと導入理由を主張するが、前者についていえば、現行法は労働時間の長さの上限を規制するのみであり、かつ、様々な弾力化制度が既に用意されているのであるから企業内での制度の工夫により、無駄な拘束をなくすことは十分に可能である。また、後者は、だから適用除外というのは余りにも短絡的な考えである。
結局、現行法による「不合理」は残業代支払義務しか残らない。いうまでもなく、この「不合理」は専ら使用者にとっての「不合理」である。分科会において労側委員が残業代削減目的と批判する由縁である。要は、実労働時間を直接規制する現行労基法(これがILO基準でもあり、グローバルスタンダードである)を、実労働時間規制は行わない米・公正労働基準法体制へ質的に転換せよという、使用者側の「都合」に応えるものにすぎない。
4 新適用除外制度の重大な危険
しかし、残業代削減は、適用除外拡大の本質ではない。換言すれば、現在横行している違法な不払(サービス)残業を合法化させるという点にとどまらない、労働時間規制の本質に係わる重大な危険を持つ制度である。
(1) 法的手掛りの喪失
人間らしい生活のための最低基準として保障されている、8時間、40時間労働制の適用が法的に主張しえなくなることが第1の本質である。長時間・無限定な労働時間から免れる術が法的に存在しなくなるのである。裏を返せば、休む権利が剥奪される。その上、健康管理は自己責任との誤まった論が強調されることになる(石嵜信憲「日本版ホワイトカラー・エグゼンプションとメンタルヘルスをめぐる法的視点」季労213号)。
8時間労働制は、人間らしく、健康で、個人生活・家庭生活・地域や仲間との生活を享受するために、労働時間と非労働時間を峻別し、労働時間を短縮させる人類の運動の一つの到達点であり、全ての労働者に保障されるべきものである。そして、様々なレベル、局面での技術革新が進む中、8時間はもっと短縮されるべきであり、その基盤は十分あるはずなのに、そうはなっていない。資本が欲求する効率、スピード優先の思想を根本的に切換えることが、今求められているのである。
(2) 監督排除による治外法権化
もう1つの本質は、労使自治(労使委員会決議)の美名による、労働行政(国家)の監督の排除である。監督の排除により企業内労使関係は治外法権となる。
労使自治の当事者である労の代表が自由かつ主体的に使と対等に渡り合えるのであれば、骨格だけの法規制でもよいかもしれない。しかし、労の代表の大半は、過半数組合ではなく過半数代表者とこれが推薦(指名)する者である。過半数代表者が使用者の御用機関にすぎない実状にあることはつとに指摘されてきたところであり、労使委員会決議にせよ、労使協定にせよ、使用者の自己契約にすぎない。過半数代表者制度を抜本改革しないままでの労使自治は、使用者の専制の容認と同義である(なお、労弁06.8.8付「規制改革・民間開放推進会議の『意見』に対する見解」参照)。
5 今、必要なことは、実効ある時短政策
日経ビジネス誌(11月6日号)は、「管理職が壊れる」とタイトルした特集を組んだ(なお、同誌は05年10月24日号で「社員が壊れる」を特集した)。7割を超える企業が30代を中心とした脳・心臓疾患や精神障害の深刻化を予測している。
今、必要な労働時間政策は、無限定な労働時間を容認・拡大する適用除外の拡大ではなく、全ての労働者に実効ある時間規制をかぶせ、大幅かつ抜本的な時間短縮を実現することである。
時短を進めるにあたっては、現行法の適用除外規定が極めてルーズに運用され、これに対して何らの監督権限が発動されてこなかった労基法運用の60年の歴史を真摯に反省し、法を厳格に適用することから始めなければならない。しかるに、「素案」にはこの点について検証する姿勢がみられない。
第2 新・適用除外の要件と効果
当弁護団は、新・適用除外に断固反対であり、その要件をいかに定めたとしても問題の本質を解消するものではないと考える。提起されている要件と効果の検討からも、このことは明らかである。
1 要件のあいまいさ
(1) 「素案」は新・適用除外の要件として、a.業務、b.地位、c.業務遂行の裁量性、d.年収を挙げる。
- 業務 「労働時間では成果を適切に評価できない」業務とは、そもそも法的要件足りえているのか。他の業務と明瞭に区別ができ、その範囲を限定・画定することが要件を定める意義であるが、「素案」の表記では、これを満たすとは到底言えず、使用者の恣意を許すこと明らかである。
- 地位 「業務上の重要な」権限と責任を伴う地位とするが、「相当程度」でよいばかりか、「業務上」とはどの範囲・場面を指すのか極めて不明確である。企業全体か、事業場か、配属部署か、当該人が担当している業務か明確にしなければならず、他の制度とのバランス上、企業全体でみて当該地位が企業の業務上重要な権限と責任を有すことが必要であると考えるが、具体的な対象者の決定を労使委員会決議に委ねるとすれば、要件の意義が大きく失われる危険は極めて高いといわざるをえない。
- 業務遂行の裁量性 裁量労働のみなし時間制の要件と同様の表現であるが、抽象的に与えられた裁量性が現実に、会社・上司・同僚らに何ら気がねなく、日常的に行使しえていることが必須の要件である(平15.10.22厚労省告示353号第3.1.(2).ハ参照)ところ、自ら業務量をコントロールしうる労働者は現実にはほとんど存在しない。
- 年収 年収を1要件とすることは、当該年収以下の者が一律に制度の適用外となって明確である反面、年収要件が一人歩きしてそれだけが要件のように労働現場で扱われる危険性が高いと危惧せざるをえない。ところで、「相当程度高い」とは、具体的にどの程度を指すのか。1075万か1000万か700万か。年収を要件とするのであれば、具体的数字を法の本則で定めるべきであり、規則等に委ねてはならない。規則等に委ねた場合には容易に改訂が出来、要件としての意義が失われる。
(2) 以上からすると、成果主義賃金を前提に裁量労働制と管理監督者の要件をミックスしたもののように評価されるが、だとすれば、現行法での対応が可能なはずで、ここでも、新制度の必要性が存しないことを露呈しているといわざるをえない。
2 手続(労使委員会決議事項)
(1) aの一般決議事項は、企画型裁量労働制における決議事項を踏襲したものと考えられるが、ⅲの休日の確保と特定は、決議に意義があるのではなく、結果として現実に(心身共に)休めたかが問題となるのであり、次項で触れる。ⅳの健康・福祉確保措置は、具体的請求権が民事上認められるものでなければほとんど絵に画いたもちにすぎないのであって、「素案」はこの点の理解をまったく欠いている。
(2) 「労働者の申出による医師の面接指導」を健康確保措置と呼ぶこと自体、おこがましく、また、労働契約に付随する信義則上の使用者の安全配慮義務の免脱を許すことになりかねないものである(企画型裁量労働制における定時報告の廃止の提起からみても、「素案」が真剣に健康確保やそのための指導・監督の強化を検討しているとは考えられない)。
3 実効性(履行確保)はあるのか
「休日を確実に確保できるような法的措置」とは、具体的にいかなる方策なのであろうか。これが明示されるまで論評はひとまず留保するが、この点は新・適用除外が長時間労働の抑制と両立するとする政策提起者にとってまさに要であり、これについて具体策を明らかにしないのは甚だ遺憾である。一般労働者の時間外削減方策として休日労働の回数規制すら提起しない姿勢からして、実効ある方策が提起されるとは到底考えられない。
また、形式上休日が付与されるだけでは、極めて不十分であることが深く留意されねばならない。休日に自宅等で業務を行う事例は厚労省調査においても相当な割合にのぼっており、さらには、精神的にも業務から完全に開放された24時間(48時間)を確保しうる法的措置が真剣に検討されねばならない。
4 効果の拡大
「素案」は従来提起されていた法35条(休日)を削除し、法39条(年休)だけを適用すると提起する。
これは極めて重大な後退であり、前記休日確保策を真摯に検討しているのかを強く疑わせる。
また、深夜業規制(法37条)の排除の提起は従前通りだが、管理監督者とのバランスを欠く(「素案」には、管理監督者について法37条排除は表記されていない)ものであり、長時間労働妨止、健康確保の視点からも法37条は適用されるべきである。
5 まとめ
「素案」は総じて、新適用除外制度、企画型裁量労働制度及び管理監督者制度が混同され、相互に連関し合い、不分明なものとなっており、労働現場で、また監督行政においても混乱・濫用を来たす――その被害者は労働者である――こと必至である。
第3 スタッフ職の管理監督者性
適用除外の拡大との対応で方針が180度転換された(当初は、適用除外となるべきスタッフ職は新制度でカバーする構想であった)ところであるが、提起された「考え方」はまず業務の点において、企画型裁量労働制とどう異なるのであろうか(「事業の運営に関する事項」と「経営上の重要事項」とはどう違うのか)。政策提起者自身、明確な区分けができていないと評さざるをえない。
また、「ラインの管理監督者と同格以上」とあるが、まず前提として企業実務の実状である「課長職は管理監督者」は誤まりであることを明確に示すべきである。
第4 企画型裁量労働制の拡大
「素案」は、中小企業につき、対象労働者の範囲の拡大(対象業務に「主として」従事する者―「従」として対象業務外、あるいは定型的業務を行う者も対象とする)を提起する。
中小企業は一人何役も担当せざるをえない実状にあるとの理由であろうが、容認できない。最低基準たる労働条件を企業規模で異なるものとするのは平等・公平に反し、ふさわしくない。また、中小企業では、労働者代表による企業内での規制力の発揮は全く期待できないのであり、使用者の恣意を許すことになる。
第5 時間外労働削減案
「長時間労働(の)抑制」が今次改正の最大の目的・目玉であるはずにも拘らず、「素案」が提起する施策は、努力義務(その実効性のないことは明々白々)、支援策の充実、助言指導の推進というものばかりで、「検討の視点」(6月13日付)からの後退も甚だしく、唯一、民事上の義務となりうるのは「一定時間を超える時間外労働」に対する「現行より高い一定率の割増賃金の支払」だけである。何ともさびしい限りであり、時間外労働抑制への政策提起者の意欲のなさは目を覆うばかりである。
「一定時間」とは恐らく現行基準時間と同一と思われ、「高い」といっても現行法令で50%までの割増率は設定できるのであるから、「法制度の整備」などとはおこがましい限りである。
おわりに
市場主義万能政策が厳しく批判されている(例えば、高梨昌「ゼミナール日本の雇用戦略」)。長時間化の傾向が強まる現在の労働時間の実状をふまえるならば、労働時間規制の緩和は市場主義への加担とこれを促進するものといわざるをえない。また、男女共同参画社会、少子高齢化対策、ワークライフバランスなどの政策との整合性も欠く。厚生労働省は「国民生活の保障及び向上」、「労働者の働く環境の整備」とのその設置の趣旨・任務(厚労省設置法3条)に沿った役割を果たすべきである。