労働契約法制

2005/10/4

1 労働契約法制の立法に向けた動向

 合理的な理由を欠く解雇を無効とする規定を含む2003年6月の労働基準法改正法案に対する衆参両院附帯決議においては、「労働条件の変更、出向、転籍など、労働契約について包括的な法律を策定するため、専門的な調査研究を行う場を設けて積極的に検討を進め、その結果に基づき、法令上の措置を含め必要な措置を講ずること」とされた。これを受けた厚生労働省は、「今後の労働契約法制の在り方に関する研究会」(菅野和夫(座長)、荒木尚志、内田貴、春日偉知郎、曽田多賀、土田道夫、西村健一郎、村中孝史、山川隆一、吉田徹の10名)を2004年4月23日に発足させた。

 上記研究会は、「労働契約法制の対象とする者の範囲」、「労働契約の成立、展開、終了に係るルールの在り方」、「労働条件設定システムの在り方」、「労働契約法制の機能」を中心として調査・研究を行うものとし、2005年4月13日に「中間とりまとめ」を公表し、2005年9月15日最終報告を公表した。

 厚生労働省は、労働政策審議会(労働条件分科会)で審議の上、2007年には国会に法案を提出する予定である(なお、同分科会では、「時間研報告」を受けて、労働時間法の改正も審議される)。

 しかし、研究会報告は、各論において現行法制・判例法理を前進させる点があり、強行規定と解される提起もあるものの、総じて、われわれが要求している本来あるべき労働契約法制の内容を提起しているとは言いがたく、労働者の権利を後退させる危険のある重大な内容をも含んでいる。

2 研究会報告の問題点

(1)あるべき労働契約法制との乖離

 労働契約法制は、第一に、当事者の意思のいかんにかかわらず適用される強行規定がその基本になるべきであり、第二に、労働契約関係上の権利義務の要件と効果が定められるべきで、使用者の行為の有効性要件としての合理的理由や必要性などを定めるいわゆる実体規制が中心となるべきであり、第三に、労働契約法制に期待される主要な役割は、労働契約関係上の権利義務の要件と効果を定める裁判規範としての民事法であり、裁判所の判決を通じての権利の実現、いいかえれば労使紛争の公正かつ妥当な解決基準を提示することにあるべきである。

 しかし、研究会報告は、「労働契約法制は、労使当事者の自主的な決定を促進することを目的とする」とし、「その履行も基本的に労使当事者間の信頼関係によって図られるべきである」ことを強調している。これは、労働契約法制を「自発的な法目的達成への支援」と位置付けるに等しく、裁判所による権利実現のための法としての役割を軽視するものである(任意規定にすぎなければ、これと異なる就業規則の定め、場合によっては労使委決議すら、裁判規範となってしまう)。

 また、労使の「格差」を是正し、「実質的に対等な立場で決定を行うことを確保するため」として労使委員会の活用を提起するが、後述のように、手続規制としての条件すら整備しないまま一定の効力を付与しようとするもので、実体規制には程遠い。

 このような基本的立場に立つ研究会報告の各論の内容は、労働者の権利を改善させる方向で労働契約関係上の権利義務の要件と効果を定める具体的提言をすることに消極的になっているといわざるを得ない(部分的には、就業規則の効力要件、試用期間の上限設定、退職の意思表示のクーリングオフ等前進面もある)。法的拘束力のない指針の意義を述べ、配置転換に当って使用者が講ずべき措置、解雇や整理解雇に当たって使用者が講ずべき措置などを指針で定めることを提起していることは、研究会報告の消極的姿勢を端的に示している。

(2)労使委員会制度について

 研究会報告は、労働者の交渉力を高める方策として、「労使委員会」を活用すべきとし、過半数組合がある事業場でも「労使委員会」の設置を認めてよいとする。現行の「労使委員会」は、労基法の企画業務型裁量労働制の導入に必要とされ、使用者を代表とする委員と労働者を代表とする委員とで構成されるものである(労基法38条の4)が、この労使委員会、さらには労基法上の過半数代表制度(ことに、過半数代表者)と提起する労使委員会との関係については何ら具体的に触れていない(なお、「代替効付与」が考えられるとの記述はある)。しかし、労使委員会で5分の4以上の決議がある場合には、次のような効果を与えるべきとしている。①就業規則の変更について、就業規則変更の合理性を推定する。②解雇の金銭解決制度の導入(使用者申立)や解決金額の基準を定める。さらに、労使委員会における事前協議・苦情処理が、配置転換、出向、解雇等の権利濫用判断の「考慮要素となりうることを指針等で」示すとする。

 しかし、労使委員会決議等に対して、このような効果を与えることには重大な問題がある。提起される労使委員会は、使用者から独立した労働者の代表機関ではない。民主的な代表機関が設立されたとしても、労働組合とは異なり、争議権はない。そのような労使委員会での決議に対して、個々の労働者が就業規則不利益変更、解雇、配置転換、出向を裁判で争う場合に重大な影響をもたらす効果を与えることは、労働者の権利確保を現在以上に困難にする危険がある。

 使用者から独立した労働者の代表機関の設置を提言せずに、使用者に従属する可能性が多大にある労使委員会にこのような権限を与えることは、労働者の権利確保に逆行する危険があるといわざるを得ない。

 今後、審議会においては、現行過半数代表制度の抜本的見直し、労働者代表機関の構想の論議の中で、労働者集団の関与のあり方が十分に時間をかけて議論されるべきである。

(3)就業規則について

 研究会報告は、就業規則の民事的効力についての秋北バス事件最高裁判決の法理を法律で明らかにすべきとし、また、就業規則に労働者を拘束する効力を認めるための要件を、①労働者への周知手続の実施(フジ興産事件最高裁判決の法理)、②過半数代表からの意見聴取、③行政官庁への届出、とすることが「適当」としている。

 他方、就業規則不利益変更の合理性の判断要素に関しては、「一部の労働者のみに対して大きな不利益を与える変更の場合を除き、労働者の意見を適正に集約した上で、過半数組合が合意した場合又は労使委員会の委員の5分の4以上の多数により変更を認める決議があった場合には、変更後の就業規則の合理性が推定されるとすることが適当である」としている。

 しかし、判例法理を実定法化するとすれば、まず、原則(変更等により不利益を一方的に課すことは許されない)を規定すべきである。また、個別事件の具体的内容、とくに労働条件変更の高度の必要性や労働者が受ける不利益の内容・程度等の個別的検討を抜きにして、一般的に変更の合理性を推定する規定を置くことは重大な問題がある。就業規則変更手続に関する労使交渉における組合の交渉力には限界があること、現実に自主性や交渉力に乏しい組合も少なくないことは明らかな事実であり、ましてや労使委員会労側委員の過半数の賛成(「報告」では委員の集団性すら何ら保障されていない)に、そのような推定効を与えることは、これまで以上に労働者の権利確保の可能性を閉ざすことになる。また、中根製作所事件の判決等では、労働協約による労働条件不利益変更の内容の合理性も司法審査の対象とされているのであるから、使用者が一方的に変更できる就業規則の不利益変更の司法審査においては、個別労働者の権利救済の確保をより重視すべきである。

(4)雇用継続型契約変更制度について

 研究会報告は、「就業規則変更など、他の手段によって労働条件の変更を実現することができず、本制度によってしか労働条件の変更を達成できない場合に限」り、個別契約によって特定された労働条件を使用者が変更できる制度を設けることを提起し、このような労働契約の変更の必要が生じた場合に、労働者が雇用を維持したまま労働契約の変更の合理性を争うことを可能にする制度(雇用継続型契約変更制度)を設けることが適当としている。そして、その制度構成としては、案①(変更協議が調わない場合に、使用者が労働契約変更の申し入れと労働者がこれに応じない場合の解雇の通告を同時に行い、熟慮期間を置く。労働者は労働契約の変更について異議を留めて承諾することができ、この場合労働者は雇用を維持したまま変更の効力を争うことができるという制度)か、案②(使用者に労働契約の変更を認める制度。この場合は、変更された条件で就労しつつ、変更の当否を訴訟で争うことになる)が考えられるとしている。

 これは、使用者に新たな労働契約変更の手段を認めるものであるが、どのような場合に変更の効力を認めるのかが明確でない。また、労働者は雇用を維持したまま変更の効力を争うことができるとするが、異議ある労働者は訴訟を提起しなければならないのであり、労働者にとって訴訟提起の負担は極めて重く、机上の空論となりかねない。逆に、使用者が就業規則変更などの他の手段によって労働条件の変更を実現することができない場合に限ってこのような変更の手段を認めると制度設計されるとしても、使用者がこの制度を濫用して、今まで以上に一方的な労働条件変更が行われる危険性を否定できない。

(5)解雇の金銭解決制度について

 研究会報告が消極的姿勢どころか労働者の権利を後退させる重大な内容を提起しているのが、解雇の金銭解決制度である。

 研究会報告は、労働者からの金銭解決の申立とともに、「法理論上の検討」と断わりつつ、使用者からの金銭解決の申立制度に対して指摘されうる問題点について「解消方法」があるとして、事実上、同制度を導入することを検討すべきとしている。しかし、解雇無効と裁判所が判断しても使用者からの申立で金銭により雇用契約を解消するような制度は、違法な解雇を行った使用者に対して金銭で労働者を社外へ排除できる手段を与えるものであり、公正な労働契約法制に逆行するものである。

 このような制度が導入されれば、金で労働者を解雇できるとの風潮を生み、安易な解雇を助長するであろう。解雇からの保護は労働契約の基幹である。解雇の不安の下では、契約法上の権利行使は保障されないからである。労働裁判における労働者の負担を考えても、労働者は、解雇が無効かどうかの争点に加えて、使用者の申立により金銭での雇用解消が認められるかどうかの争点(真の解雇理由は何か、職場復帰困難な特別事情の有無等)にも対応しなければならなくなり、労働者の負担はさらに加重する。この点は裁判所にも新たな負担となり、訴訟遅延の一原因ともなろう。

 研究会報告は、思想信条や性等を理由とする差別的解雇や正当な権利行使を理由とする解雇の場合を除外することや「使用者の故意又は過失によらない事情であって、労働者の職場復帰が困難と認められる特別な事情がある場合に限る」ことによって、「安易な解雇を誘発するおそれはなくなる」と述べているが、公序良俗に反する解雇であると認定される事例はほとんど存在しないし、使用者は思想信条や性による差別以外の解雇理由を主張するから、使用者はすべての解雇事件で申立が可能になる。また、労働者の解雇撤回を求める活動を口実にして職場復帰は困難と言いがかりをつけてくるであろう。「安易な解雇を誘発するおそれ」がなくなることはない。

 また、研究会報告は、「個別企業における事前の集団的な労使合意(労働協約、労使委決議)」で、使用者申立の金銭解決制度や解決金額の基準が定められていることを申立の「要件とすることが考えられる」としているが、わが国の労使関係の実情からすると、きわめて低額の「解決金」で雇用が解消される合意を労働者側が押し付けられる危険性が高い。

 解雇の金銭解決制度は、唯一ドイツで定められている制度(解雇保護法9、10条)であるが、ドイツでもほとんど利用されていない制度である。まして、わが国において、現在、解雇の金銭解決制度を導入すべき必要性は全くない。労働者の権利を後退させる弊害のみを生じさせる制度といわなければならない。

(6)有期労働契約について

 研究会は、「有期労働契約については、過度の規制を加えるのではなく、労使双方にとって良好な雇用形態としてその活用が図られるよう最低限の条件整備を行う」との基本的立場に立ち、急速に拡大している有期(非正規)雇用に対して、全く問題意識を持っていない。

 その上で、研究会報告は、有期労働契約に関する手続として、使用者が契約期間を書面で明示しなかったときは期間の定めのない契約とみなすことが適当としている。しかし、雇止めを制限する判例法理について法律で定めることを提起していない。

 また、平成15年改正労基法による「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」(平成15年告示357号)に基づき、使用者が有期労働契約を締結した際に更新の有無を明示し、更新することがあると明示した場合に更新するかどうかの判断基準を明示したことを雇止めの有効性の判断に当たっての考慮要素とすることが適当としている。しかし、これだけでは、使用者が契約締結の際に形式上「更新なし」と明示する場合には、雇止めの有効性を争うことが困難になってしまう結果になる。

 そのうえ、研究会報告は、試用的な雇用の期間について、期間の定めのない労働契約における試用期間であると判断して労働者の権利を確保した神戸弘陵学園事件最高裁判決が問題であるかのように述べ、期間の上限を設けない試用を目的とする有期労働契約(試行雇用契約)が認められるべきものとしている。

 報告は、期間満了後に本採用しなければ期間満了によって労働契約が終了することの明示を要件として試行有期雇用契約と認めるが、その意味するところは、神戸弘陵学園事件最高裁判決の判例法理の適用範囲を使用者の都合のいいように制限しようとしていることにある。これは、最高裁判決の法理を制限して、使用者の便宜のために試用を目的とする有期労働契約を正面から認めようとする重大な問題である。このような試用雇用契約(しかも期間の上限なし)が法制化されれば、使用者に都合のいい不安定雇用がさらに拡大されることになる。

3 日本労働弁護団の取り組み

 日本労働弁護団は、これまで、1994年4月に「労働契約法制立法提言」、1995年6月に「労働契約法制立法提言(緊急五大項目)」、2002年5月に「解雇等労働契約終了に関する立法提言」を発表してきたが、包括的な労働契約法の立法化に向けて厚生労働省として検討を開始した状況もふまえ、2005年5月19日、あらためて労働契約法制立法提言(季刊労働者の権利260号)を発表した。

 また、研究会での検討作業に対応し、「労働契約法制の基本的性格についての意見書」(2004年6月24日)、「研究会中間とりまとめに対する見解」(2005年4月27日)、「研究会中間とりまとめに対する見解(その2)」(2005年7月25日)を発表してきた。

 労働契約法制は、これまでの労働法制の中で欠落していた重要な法制であり、労働者の権利確保のために必須のものであり、われわれもその必要性とあるべき内容を提起してきた。その意味で、厚生労働省が包括的な労働契約法の立法化に向けて作業を進めること自体は評価すべきであるが、問題は、厚生労働省が立法化しようとしている内容が、本来あるべき労働契約法制からみて不十分であるのみならず、解雇の金銭解決制度等々に示されるように、明らかに労働者の権利を後退させる重大な問題点を含んでいることである。研究会報告はあくまでも研究者レベルの研究であり、これがそのまま立法化されることがあってはならない。

 日本労働弁護団としては、今後、解雇の金銭解決制度などの立法化に反対するとともに、本来あるべき労働契約法の制定を目指す取り組みを強める。

(担当 井上幸夫)

以 上