労組法上の労働者を否定した東京地裁・高裁判決を批判する決議

2009/11/14

労組法上の労働者を否定した東京地裁・高裁判決を批判する決議

 近時、東京地裁・高裁において、個人請負(委託)形式で働かされている労務供給者が労組法上の労働者にあたるとした中労委命令を取り消す判決が相次いでいる。

 新国立劇場事件・東京地裁平成20年7月31日判決、同事件・東京高裁平成21年3月25日判決、ビクターサービスエンジニアリング事件・東京地裁平成21年8月6日判決、イナックスメンテナンス事件・東京高裁平成21年9月16日判決がそれである。また、イナックスメンテナンス事件・東京地裁平成21年4月22日判決も、結論としては中労委の判断を支持したものの、その判断枠組みは他の判決と同様である。

 これらの判決に共通する第1の問題点は、労組法上の労働者性を、客観的な就労実態から判断することなく、もっぱら契約文言上の権利義務の有無という観点から判断している点である。労組法上の労働者とは「職業の種類を問わず、賃金、給料その他これに準ずる収入によって生活する者」(労働組合法3条)とされているのであるから、契約内容如何にかかわらず、実態としてそのような者であるかどうかが判断される必要がある。これまで労組法上の労働者について判断した唯一の最高裁判例である中部日本放送・CBC管弦楽団事件(最判昭和51年5月6日)も、就労実態から労働者性を肯定していた。ところが、これらの判決は、労組法上の労働者について、「法的」な指揮命令(新国立劇場事件地裁・高裁判決)ないし使用従属(イナックスメンテナンス事件高裁判決)などといった基準を用いて、就労実態に基づく判断を放棄しているのである。

 第2の問題点は、委託契約に基づく拘束は、指揮命令関係・使用従属関係を基礎づけるものではないとして、労働者性判断の対象から除外している点である。すなわち、委託契約は対等な立場で締結されている以上、契約上の義務の履行や、「受託事務の適切な履行の確保」の趣旨で認められる拘束などは、使用従属の問題とは関係がないとし、例えば、休日を届け出ておかなければならないこと、研修などの出席が求められていること、会社の定める認定制度で報酬額が左右されること、規定に違反した場合には厳重注意や契約解除がされることがあることなどは「委託内容による制約にすぎない」として、「法的に使用従属関係にあると評価することは困難」(イナックスメンテナンス事件高裁判決)などとするのである。

 これらは、明示的に労働契約を締結した者にしか労組法上の保護を与えないと述べているに等しいものであって、根本的に誤っているといわざるを得ない。

 そもそも、憲法28条が勤労者に労働基本権を与えているのは、勤労者が使用者に対して経済的に従属し、使用者の決めた契約内容に従わざるを得ない立場にあることから、団結により使用者との実質的な対等化を図り、その生存権を保障するためである。これを具体化したものが労組法である以上、その労働者性判断が、こうした憲法の趣旨に即して、従属的な地位にあるか否かを、その就労実態から客観的に判断されるべきは当然である。また、従属的立場に置かれる労務供給者が、使用者の提示する契約形式を拒否することは困難である以上、労働者性判断において、その契約形式やその文言を重視することは誤りといわなければならない。

 ところが、これらの判決は、労組法の立法趣旨を逸脱して同法3条の文言を無視するだけでなく、使用者が提示した契約形式やその文言に拘泥し、これに当該労務供給者が同意したことをもって保護の対象から外すという根本的な誤りを犯している。このような形式主義に陥れば、使用者が、みずからに有利な契約形式を選択することでいくらでも労組法の規制を免れることができることになってしまう。

 かねてより、使用者が、個人請負や業務委託など、労働契約とは異なる契約形式を意図的に採用し、労働法の規制から免れようとしていること(非労働者化政策)が問題とされてきたところである。それはワーキングプア増大の一つの要因ともなってきた。しかるに、これらの判決は、労働者の自由意思を口実に、労組法の守備範囲を著しく狭め、使用者の労働法潜脱を容易に免責してしまうものである。それは、時代の流れにも逆行した、誠に不当な態度というほかない。
 日本労働弁護団は、このような東京地裁・高裁の態度を強く批判すると共に、各事件の上級審裁判所がすみやかに誤りを正すことを求めるものである。

2009年11月14日
日本労働弁護団 第53回全国総会