「規制改革・民間開放推進会議の「意見」等に対する見解」

2006/8/8

 

規制改革・民間開放推進会議の「意見」等に対する見解

2006年8月8日

日本労働弁護団
幹事長 鴨 田 哲 郎

はじめに
労働政策審議会労働条件分科会における労働法制(労働契約法及び労働時間法)に関する論議は、6月27日、「労働契約法制及び労働時間法制の在り方について(案)」(以下、「素案」という)が厚労省から示されたところで「中断」されているが、「素案」に対し、規制改革・民間開放推進会議(以下、「会議」という)が7月21日、異例の「意見」を公表し、今後の審議内容について多岐にわたる注文(指示)を突きつけ、さらに、同一の立場から「解雇規制の強化は誤り」なる論稿(7月26日日経・経済教室。以下、「八代」という)も掲載されている。
「素案」に対する当弁護団の意見は、労働時間の適用除外拡大と就業規則万能法に強く反対することを骨子として既に公表したところではあるが(6月26日付)、この「素案」を「規制強化」(八代)と評して非難する論調に対し、その基本認識の誤りを指摘すべく、本見解を公表するものである。

第1.労使自治とは何か

1.労使自治を論ずる前提

「意見」の骨格の基本は、「労使自治の尊重」である。一見、聞こえはよいが、裏を返せば、法・国家(規制)は企業に介入するなとの主張である。法の介入がなくとも、人たるに価する生活の確保、ワークライフバランスの確立に何の懸念もない企業社会であるならば、「労使自治」でもよいであろう。しかし、現在の日本の企業社会(企業内の労使関係)の「現実を直視」するならば、「労使自治」の主張は使用者の専制を法が容認しろというにほとんど等しいことは明らかであり、「意見」の本音もそこにあるというべきである。
「労使自治」の主張が容れられる前提として、労と使の、様々な意味での対等が確保されていなければならない。対等を欠いたままでの自治の主張は、力の強い者、即ち使用者の言うことを聞けに等しいからである。では、現在の日本の企業社会に労使の対等は確保されているのか。換言すれば、「意見」は「労使自治」の一方当事者たる「労」をいかなるものと措定しているのか。

2.組合による自治の範囲

一つは、労働組合であろう。しかし、その民間の組織率はわずか16.4%であり、6人に5人は労働組合とは無縁の労働者である。ましてや、職場に過半数労働組合が存する者は6.6%、15人に1人にすぎない。労働組合に結集していない労働者の対等確保を「意見」はどう考えているのか(なお、労働組合に結集しても、少数派組合、企業外の組合など、まともな団体交渉すら行えない労働組合も多数存在するが、指摘だけにとどめる)。
労働組合の組織率の減少には、産業のサービス化、雇用の多様化など様々な要因があるのであって、団結しないのは労働者の「自己責任」であるとして労働組合の組織率の現状を考慮しないとすれば、それは現状無視の「労使自治」である。

3.過半数代表者の改善に対する態度

この点、「素案」は極めて不十分ながらも「複数の適正な代表者」なる新たな構想を提示し、そのほとんどが使用者の下請機関にすぎない現行法の過半数代表者制度の改善の方向を模索しようとした。これに対して「意見」は、「『複数』でなければならない必然性はない。過半数代表者の『複数』選出を事実上強制するような一律規制の愚」を避けろと居丈高に、これを拒否している。
現在の過半数代表者が労働者集団の意向とは関係なく、使用者の意向で決定され、労働条件の決定に関与していることは厚労省関係機関の調査によっても動かし難い事実である。即ち、実質的な双方代理で労働条件が一方的に定められているのであり、この状況は、労使自治――対等な労使間での合意による決定――とは対極にある。この「現実を直視せず」、労使自治を叫んでも、「公正・透明なルール」など到底、策定不能である。

4.労働者個人は、非対等

最後に残るのは、1人1人の労働者個人である。「意見」に直接の言及はないが、労使の格差の存在を前提とする「実質的に対等な立場」という「素案」の件りについての非難はしていないところをみると、さすがの「会議」も使用者と労働者個人との間の格差の存在、即ち、非対等は認めざるを得ないのであろう。
「会議」がどう理解しているにせよ、労働者個人が使用者に対して対等の立場にないことは説明を要しない事実(いわゆる成果主義賃金制度が喧伝される中、非対等性は強まっている)である。労働契約の持つこの非対等性の本質把握から労働契約法制定論議は出発しなければならないが、「意見」にはこの点の指摘が全くない。

5.小括

労使の対等性の確保がない限り、「労使自治論」はその前提を欠く。日本の労働者の大多数が、労使自治を享受しうる状況にない「現実」を「意見」は「直視」していないばかりか、これを無視している。換言すれば、「意見」の「労使自治論」は虚無・幻想である。

第2.「現実」をどう変えるべきか

1.現実直視論の狙い=現状肯定

「意見」は、「労使自治」の現実には目をつぶる一方、他の場面では「現実を直視」しろと何度も声高に主張する。しかし、その現実直視論は、「裁判所が解雇を容易には認めない現実」から「退職勧奨・強要のみを問題視することは疑問」(7頁)、有期労働の実態調査(現実)から「素案」の「検討内容(有期の理由開示、優先応募機会の付与等)」は「大きく乖離」(8頁)、管理監督者の範囲は「従前の解釈にとらわれることなく」「実態等を踏まえ」「実務の現状に即したもの」に明確化すべし(11頁)というようにいずれも無法・無規制な現状に規制をかけるな、現状を容認しろというものである。また、「時代の流れ」(7頁)とも言う。
結局、「意見」の現実直視論は、使用者に都合のよい望ましい現実はこのまま放置せよ、使用者に都合の悪い現実は、法の方を変えて規制を廃止しろというにすぎない。このような自分勝手な主張は、自らの論拠とする労使自治の精神にも沿わないばかりか、使用者に偏して、労働者国民の利益を蔑ろにするものである。

2.有期雇用

例えば、有期雇用に関していえば、「時代の流れ」は、身分格差の固定(「正規・非正規の身分格差も防げない」(八代))や「均衡処遇」(「素案」)ではなく、「平等処遇」である(ILO175号条約、EU指令等)。身分格差(逆にいえば、正規労働者に対する拘束力の強さ)を前提とした実態調査(現実)を指摘し、根拠とすること自体がワークライフバランスを指向する「時代の流れ」に合わないのである。時代の流れに合わせるためには、身分格差(質の違い)を解消し、平等処遇(量の違い)が実現する、EU並みの法政策を採るしかない。

3.労働時間

時間法制についての「意見」は、「規制強化になる」(11頁)内容にするなというに尽きる。「意見」や規制緩和・廃止論者は、労働時間に関する労基法の規定が人たるに価する生活を確保するための最低限の規制にすぎないという基本を極めて軽くしか意識していないと同時に、同法が持ってもいない規制力を極めて大げさに喧伝するという特徴を有している。前者については、適用除外者を拡大すべきか、そもそも現在の適用除外規定が適切かは、まず何よりも、最低限の規制(労働者保護)をせずとも人たるに価する生活の確保に支障がない労働者がいるか否かの現実を適確に認識し、これをできるだけ正確に法に反映させることでなければならない。しかし、かかる観点からの検討は全くなされず、「時間にとらわれない働き方を可能にする」制度の拡充・創設のみが論じられている。後者については(「素案」も同様であるが)、現行法のどこが、適用除外を拡大しなければ解決できないほどの「裁量性の高い業務」における働き方や「短時間に効率的に働く人に報いるための賃金制度」(八代)の桎梏となっているのか、何らの具体的指摘をしないまま、結論(適用除外の拡大)のみ主張する。
多様な働き方は現行法の下でも個々の企業の工夫によって十分に対応可能なのであり、ワークライフバランス実現の為にはEC労働時間指令並みに労働時間規制が強化されなければならない。規制強化には何でも反対との態度は、国際的にも孤立し、国益にも反するものである。

第3.判例法理をどう評価するか

1.極めて恣意的な引用

労働契約に係わる法理が判例に委ねられてきた以上、労働契約法制定にあたって、判例法理の取り込みは重要な検討対象となる。しかるに、「意見」は判例法理につき、「確立した判例法理に照らし、疑問」(3~4頁)、「裁判例の傾向に照らしても、問題」(6頁)、「判例をそのまま法文化するだけでは立法の意味がない」(6頁)、「疑問のある判例法理」(6頁)などと、自己が容認乃至主張の根拠付けとして積極的に活用したいものは引用し、そうでないものについては最高裁判例であっても受け容れないという極めて恣意的な態度に終始している(第2での指摘と同様の発想である)。要するに、身勝手の一語に尽きるのである。

2.就業規則をどう位置付けるか

しかも、その内容に至っては、使用者に対しては、「(就業規則の届出・周知)を失念することも稀ではない」として至れり尽くせりの保護を唱える一方で、「周知を欠く就業規則についても、合意を推定する」等せよと、判例法理を無視するばかりか、「周知を欠く」即ち労働者が知りえないものが「合意」となるという、およそ契約法理とは相容れない牽強付会な主張をして何ら恥じるところがない。就業規則変更における労働者代表の同意は「十分条件とはなりえても、必要条件とはならない」とする点も含め、「意見」の就業規則法理はまさに就業規則万能論であって、自らが拠ってたつ「労使自治」とも真向から対立する自己矛盾に陥っている。

おわりに
労使対等を指向し、これを実現すべく検討されるべき労働法制に関し、「会議」が極めて恣意的で、使用者に偏した意見のみを述べたことは極めて遺憾であり、同会議の推進する「規制改革」が誰のためのものかの本質を示したものといえる。
労働法制を検討するにあたり、「再チャレンジ」(1頁)、「費用対効果」(3頁)を冒頭に指摘する点も「会議」の定見のなさ、換言すれば、政治性や偏頗性の現れである。「意見」は「会議」のワーキンググループによって執筆されたと想定されるが、極く少数の、しかも極めて偏頗なイデオロギーを持つ者が、日本の近未来の法制を立案・指示しようとしていることに対する嫌悪と不快を強く表明するとともに、一部大企業の利潤追求の場と化している「会議」に対し、われわれは、労働者の権利を守る立場から断固闘う所存であることを表明しておく。