労災保険支給決定に対する事業者による異議申立てに断固反対し、メリット制のあり方について見直しを求める幹事長声明
2023/2/17
労災保険支給決定に対する事業者による異議申立てに断固反対し、メリット制のあり方について見直しを求める幹事長声明
2023年2月17日
日本労働弁護団
幹事長 佐々木亮
1 2022年11月29日、東京高等裁判所が、事業主による労災保険支給決定に対する事業主による取消訴訟の原告適格を認めず、訴えを却下した東京地裁判決を破棄し、事業主による原告適格があることを前提として、地裁に実体審理を行うために差し戻す判決を出した。
同判決は、労働保険料がメリット制によって上昇した事業主が、労働保険料認定処分を争ったものの、労災支給決定の取消し訴訟の原告適格があるとして、支給決定の違法を主張できないとした医療法人総生会事件平成29年9月21日労判1203号76頁を参照し、支給決定を事業主が争うことを認めている。
2 しかし、上記判決は、下記理由により、到底容認できない。
(1) 精神疾患や、脳心臓疾患の労災認定は相当の時間を要するため、取消判決等が確定した場合、被災労働者及び遺族に致命的打撃を与えることとなる。
すなわち、精神障害ないし脳心臓疾患は、事故労災とは異なり、直ちにその業務起因性を判定しにくく、詳細な認定基準が定められ、労働時間の調査や、その他の「出来事」の調査、さらには専門医や専門部会への照会等、相当な時間を要し、申請から決定まで8か月ないし6か月が目標とされるが、現実には1年以上かかることもしばしばみられ、事業主がこれを争う場合も、同等の時間がかかることが当然に予期される。
実際、本件訴訟における労働保険審査会の決定が平成30年8月29日付(平成27年3月ころ発病)であることにも鑑みれば、本判決は決定の実に4年後、発病から実に7年半以上後となっている。
そして、取消訴訟による取消が対世効を有することに鑑みれば、国が敗訴し、取消判決が確定すれば、被災者たる労働者や遺族が、それまでに受給してきた療養補償や治療費を受給した理由がなくなり、国に対し、返還義務を負うことになるのである。これは、生活の手段を奪われた被災労働者及び遺族にとって、まさに致命的な打撃になるのである。
このように、支給決定処分を事業主に争わせることで、被災労働者にかかる法律関係が安定することなどなく、かえって、多額にわたる労災保険金の返還義務が生じるという、生活を根こそぎ奪うような被害が生じるのである。
例えば、月例賃金30万円の場合で前記2022年11月29日判決のように7年半、休業補償給付を受給していた場合、休業補償分だけでも月24万円×12か月×7年半の2160万円、これに加えて7年半分の治療費の3割(健康保険の自己負担分)の返金を求められることとなる。生活費を得る手段がない労働者や遺族が、このような多額の費用の返還を求められることで、生活が根本的に破壊されるのである。
(2) さらに、被災労働者や、遺族に負担がかかることとなる。異議申し立てにおいて全面的に再調査を行ったり、際限なく新主張を行わせることとなると、必然的に被災労働者や遺族に対して再度の調査が行われることとなる。
これにより、被災労働者や遺族は、自身の労災認定が争われていることや、自身にとってショックだった出来事の想起という負担に再三さらされることとなり、心身の健康を害するおそれがある。これと前記(1)の負担の可能性を考えると、被災労働者又は遺族に対して過度な精神的苦痛が発生し、これ自体が疾患の原因ともなりかねない。
(3) また、労災認定が今以上に過少となり、労災認定の実務を停滞させ、現場に過重な負担をかけることが予想される。
すなわち、使用者に異議申し立てを認めると、労災認定段階から、使用者から「認定を出せば確実に取消訴訟や審査請求に及ぶ」旨の言及を行う等の圧力があることや、今以上に抵抗を行うことが当然に予想される。
特に、担当官が、事実認定について、必要以上に謙抑的になったり、精神疾患の労災に認定において、精神的負荷の総合評価を行う際に、必要以上に謙抑的になりうる。
さらに、労災段階から使用者が積極的に関与すると、労災認定の現場での混乱が生じ、手続きの長期化、ひいては労働基準監督官の過重な負担が生じることとなる。
(4) 次に、仮に異議申し立てが行われるとなると、事実認定の根拠が一定明らかにされることとなる。これに伴い、被災労働者の協力者の氏名や、その特定に繋がる供述内容が明らかにされるおそれがある。
被災労働者の協力者の中には、在職の者や、関連する企業に在職している等の事情によって、事業主に協力者として氏名を知られることで不利益が及ぶ者がいる。異議申し立ての手続きで、これらの者が露見するとあれば、申請に対する協力が得られなくなり、また、労働基準監督署としても率直な聴取が不可能となり、かえって事実に反する認定を行うこととなるのである。
(5) 加えて、過労死防止も阻害することとなる。現在、労災認定が行われたことを契機として、損害賠償交渉や、これにともなう再発防止策の交渉を行うことが多くなされている。ところが、行政手続きにおいて、事業主が労災の要件該当性を争えるとなると、同手続きを行うことを前提として速やかな解決が図られず、また、裁判所も同手続きを見ながら損害賠償訴訟を進行することも懸念される。
前記2022年11月29日判決の第一審でも、メリット制の趣旨である災害防止について、ひとたび認定されたのちに争わせたとしてもこれを促進することはない、と判示されている上、上記の通り、災害発生防止をかえって妨げるのである。
(6) また、労基法19条解雇への影響も懸念される。事実、2022年11月29日判決の控訴人(原告)である事業主は、当該取消訴訟を提起している決定にかかる被災労働者を解雇しており、使用者に労災認定に対する異議申し立てを認めた場合、行政の決定を尊重せずに同様の対応を行う事業主が増える可能性が高い。
(7) 加えて、集団的労使関係における悪用の危険もある。実際、前記2022年11月29日判決は、背景に集団的労使紛争があり、その中で提訴されているのである。労災で休業し、本来であれば復職することができたはずの労働者が、使用者に労災の取消訴訟まで提起されるという対応により、復職意欲をそがれ、職場から組合員を排除する手段となってしまう。
以上の通り、労災支給決定処分を事業主が争うことを認めた前記東京高裁判決は不当で到底容認できない。
3 かかる判決が出た原因は、メリット制によって、直接、使用者の保険料が増大する可能性が生じることにある。
そもそも、メリット制は、労災保険料徴収法12条3項に「できる」とある通り、任意的適用となっており、一部疾病等については、通達によってメリット制の対象外となっている。その上、労災事故の防止という観点からは、業務起因性のある傷病が発生したことと、保険料増大を直接結び付けるべき理由はない。
これに加え、現在のメリット制の在り方によって前記のような判決が出て、種々の被災労働者・遺族に対する負の影響があるため、メリット制のあり方について議論を速やかに開始し、迅速な補償を行うことで安心して労働者を療養させるという労基法第8章及び労働者災害補償保険法の趣旨を真に達成できる制度とすべきである。
以上