「不正競争防止法の見直しの方向性について」に対する意見

2005/1/17

 

「不正競争防止法の見直しの方向性について」に対する意見

2005年1月17日

千代田区神田駿河台3-2-11
総評会館4階
日本労働弁護団
(TEL 3251-5363)
幹事長  鴨 田 哲 郎

 

意見の趣旨

  「Ⅳ 退職者による営業秘密の不正使用・開示について」に関し、退職労働者が秘密保持契約に違背して、不正に営業秘密を使用・開示した場合に限定するとしても、このような行為に刑事罰を適用することには反対である。

意見の理由
第1 「提言」の骨子
 
産業構造審議会知的財産政策部会不正競争防止小委員会の「不正競争防止法の見直しの方向性について」(以下「提言」という。)は、「退職者が自ら納得し、かつ対象の明確な守秘義務に違反した場合、言い換えれば、退職者が自由意志で行なった企業との約束を反故にして営業秘密の不正使用・開示を行なった場合に限定して刑事罰を適用することを検討することが妥当である」としている。

第2 刑事罰導入は、職業選択の自由に対する不当な制約となる
1 労働者には、退職、就職(転職)、起業の自由が保障されている。
 
これらの自由は、憲法22条1項の職業選択の自由の具体化であることはもとより、憲法13条の個人の尊厳、自由・幸福追求権の尊重に由来する人権であって、最大限の尊重がなされなければならない。退職の自由の保障については、近時においても、有期雇用契約の上限期間延長にあたり、立法上明記されたところである(労基法137条)。
 
転職や起業は、通常、これまでの労働者の知識・経験を生かして行なうものである。したがって、退職、就職(転職)、起業の自由を保障するためには、労働者がこれまでの知識・経験を生かして労働すること及び起業することが不当に制約されてはならない。
 「提言」も、この点に配慮するとして、退職者が「自由意志」で秘密保持契約を締結し、これに違背して不正に使用・開示した場合に限り、刑事罰を適用すればよいとしている。
しかし、このような限定をしても、刑事罰という重大な制裁を課すことは職業選択の自由に対する不当な制約というべきである。

2 退職者が「自由意志」により秘密保持契約を締結することは困難
 
「提言」は、秘密保持契約を有効に締結しうる場面として、①個別のプロジェクト毎、②退職の際を想定している。
  しかし、①については、今後も雇用契約の存続を望む労働者が、企業から秘密保持契約の締結を求められ、これを拒否することは事実上できない。拒否すればプロジェクトへの参加が認められなくなるであろうし、企業内における立場が悪くなることは必至である。秘密保持契約の締結を拒否することは、企業の秘密を守ろうとしない意思があるとみなされてしまうから、そのような労働者を企業がその後公正に取り扱うことなどとても考えられない。これだけのリスクを冒して「自由意志」を通す労働者は存在しない。
  また、②の退職時であれば、今後の企業内における取り扱いや立場を気にする事無く拒否することはできるが、日本の企業では退職金制度が存在する企業が多いから、退職金の支給をめぐる争いを避けるため、事実上拒否できない。「提言」内容が立法化されれば、退職金制度の中に秘密保持契約の締結を条件に退職金を支給する旨の規定を置いたり、秘密保持契約を締結しなければ退職金を減額する旨の規定を置くなどして、退職金支給とからめて秘密保持契約の締結を事実上強制することも可能になる。
 
さらに、退職金の減額・不支給の脅威が存在しない場合でも、退職証明書や離職票の交付等のスムーズな退職手続の阻害、前職照会における嫌がらせ、転職先等への圧力、関係業界への流言の流布など「円満」退職しえない退職者の不安は極めて大きく、これらのリスクを冒して「自由意志」を貫きうる労働者はほとんどいない。
 
このように、秘密保持契約の締結が真に退職労働者の自由意思により労使対等の立場でなされるとは考えられず、これが事実上強制されるとすると、労働者の職業選択の自由は不当に制約されることとなる。

3 退職の自由及び退職後の活動の自由について萎縮効果を発生させる
 
私人間の契約の内容・範囲は様々であろうし、必ずしも法的知識を十分備えた当事者間で締結されるとは限らないから、不明確な表現で規定されることが十分予想される。そうすると、その不明確な規定によって、処罰範囲が画されることになりかねない。
 
「提言」も、秘密保持契約の定め方において「新技術Aに関する研究グループのラボノートBに記載された検査データ」「C製造のD工程で使用される添加剤Eの調合手順」「F信販(他社)が管理し当社への業務委託に際し提供したファイルGの中に記載された多重債務者リスト」などと、明確な規定でなければ、刑事罰を課すための秘密保持契約としては有効ではないと考えているようである。 
 
しかし、いったん秘密保持契約が締結されれば、労使関係の現実においては、それが無効であると司法機関等によって判断されるまでは有効なものであるとの前提で使用者が対応することは明らかであり、また、企業の告訴等に基づき捜査機関によって不当に逮捕・勾留される可能性は十分にある。そうすると、労働者としては、使用者とのトラブルを避けるためや逮捕・勾留を避けるために、締結された秘密保持契約を広く解釈して、退職後の行動を制約せざるをえない。ここに大きな萎縮効果が発生するのである。さらに、有用性や非公知性を欠く事項まで秘密保持契約を締結させられた場合はその萎縮効果は絶大となる。
 
「提言」の内容は、職業選択の自由を不当に制約するものであるばかりか、退職の自由及び退職後の活動の自由まで侵害しかねないものである。

4 秘密保持契約の有効期間
 
秘密保持契約においては、その有効期間の定めがあるものとないものがあり、定めがある場合にもその長短はさまざまである。この有効期間の定めをそのまま有効なものとして取り扱い、有効期間が無限定の場合は一生涯処罰の対象としすることは、不当に処罰の範囲を拡大することとなるから、労働者の職業選択の自由を不当に制約するものとして許されない。
 
この点について「提言」は、「個別の秘密の性質等に応じ、合理性・妥当性の認められる範囲で、秘密保持契約に盛り込むことにより考慮するべきである。逆に、過度に長期にわたる期間を設定した契約は、その有効性が問われることとなる。」と、個別に解釈することによって対応しようとしている。
 
しかし、自己が締結した秘密保持契約がいつから無効となるかについて退職者が判断することはできないから、やはり前項同様職業選択の自由そして退職後の活動の自由に対する不当な制約となることは避けられない。

5 刑事罰の対象とする必要性は低い
 
今回の法改正によって新たに処罰の対象としようとしている行為は、退職者が、記録媒体を用いずに営業秘密を利用した行為である。「記録媒体を用いずに営業秘密を利用する」主な形態は、「記憶」ということになろう。
 
ところで、労働者によって、記憶に基づいて利用される営業秘密については、法的に保護する必要性は低いと考えられる。記憶には生理上の限界が存在するからである。法14条5号が、刑事罰を課す対象として「記録媒体等」を領得等した場合に限定した趣旨も、営業秘密記録媒体等に記録されている営業秘密は、人の記憶になじまないものであり、情報量が多くコストをかけている分、経済的価値が高いものが少なくなく、かつ、記録媒体等が盗まれる場合には、営業秘密の再現性が高く、また他者にも伝播しやすいので、営業秘密の不正使用、開示を誘発する危険性が高いことから、保護することとしたのである。このような保護の必要性が高くない「記憶」に基づく秘密については、労働者の職業選択の自由を侵害してまで刑事罰を導入して保護するに値しないものと考える。

6 秘密保持契約を根拠にその不正な不履行に対して刑事罰を課すことは、労働者に、将来の、往々にして不明確な、秘密保持の拘束を受けつつ退職するか、これを拒否して使用者とのトラブルの発生を甘受するか、あるいは退職を諦めるかといういずれも「自由意志」ではない、不本意な選択を迫るものであって、労働者の職業選択の自由を不当に制約することとなる。なお、職業選択の自由が阻害されることによって、引いては企業活動も阻害されるおそれがある。すなわち、労働者がこれまで培ってきた経験や知識、ノウハウを利用して転職や起業ができないこととなれば、転職者を利用して企業活動を展開することなどは極めて困難ということになる。

第3 刑法の理念と罪刑法定主義に著しく反す
1 契約の履行を刑事罰で強制することになる
 
「提言」によれば、企業と労働者が締結した秘密保持契約を根拠に、その不正な不履行が処罰されることとなる。企業が容認しない使用・開示は通常、「不正」と評価されるであろうから、これは民事契約の履行という私人間の法律関係を刑事罰の対象とし、その履行を刑罰で強制することに他ならない。刑事罰という極めて強力な公権力の行使の有無を、私人間の契約に委ねるということ自体、私的自治を基本とする民事不介入の大原則に反し、近代刑法の理念に著しく違背するものである。刑事罰を導入すれば、警察権力が逮捕・勾留をすることが出来ることになり、最終的に司法判断によって無罪となることがあっても、使用者の意向に沿った、不当な逮捕・勾留の危険は、後述の罪刑法定主義に反するが故に、一層強いといわざるをえない。
 
他方、秘密保持契約の存在を根拠とする限り、秘密に接し、これを盗み出すことを目的に就業する者、企業に対して忠誠心を有しない者など最も処罰の対象にすべき者については、秘密保持契約の締結を拒否されてしまえば処罰しえず、立法目的を達しえない。

2 罪刑法定主義に反す
 
既に指摘したように、秘密保持契約の内容が十分に確定的でない場合には、処罰対象が不明確とならざるをえず、構成要件の明確性の要請に反し、罪刑法定主義に反することは明らかである。また、契約の有効期間の定めがない場合あるいはそれが長期の場合にも処罰根拠たる契約の有効性自体が不明確となるのであって、明確な基準を設定しえず、個々のケース毎に司法機関がこれを解釈するのでは同様に罪刑法定主義に反す。

第4 雇用流動化政策により、刑事罰の対象者は急増する
 
現在、政府によって雇用の流動化(中途採用やヘッドハンティングなど)を推進する諸政策が講じられ、産業界は様々な雇用流動化の具体策を実行し、長期雇用者をできるだけ削減する措置を強力に進めている。したがって、今後ますます退職者・転職者、さらには起業家が増加することが見込まれ、これらの者の多くが多かれ少なかれ在職中に営業秘密に接していると想定される。
 そうすると、今後ますます、退職者について再就職先を確保したり、起業を推進することが重要となってくるが、「提言」は、今後、急増が予測される退職労働者の職業選択の自由を不当に制約するものであり、退職労働者が生活の資を得る手段の保護と一私企業の営業秘密の保護とのバランスを著しく欠くものである。
 
そもそも、2003年の法改正の際にも、本項は検討項目に加えられていたが、雇用の流動化を萎縮させるおそれがあるとして、退職者に対する処罰は除外した経緯がある。わずか1、2年で立法事実が結論を転換させる程大きく変化したとは到底認めえず、「提言」はこの経緯を無視するものであり、不当である。

第5 退職者からの営業秘密の保護のあり方
1 刑事罰の対象とすべき行為についてはすでに刑事罰が科されている
 
すでに、不正競争防止法第14条5号により、「不正の競争の目的で、詐欺等行為若しくは管理侵害行為により、又は横領その他の営業秘密記録媒体等の管理に係る任務に背く行為により」「営業秘密記録媒体等を領得」する方法または「記載又は記録について、その複製を作成」する方法により「営業秘密を使用し又は開示」する行為は、退職者も含め刑事罰の対象となっている(なお、同条6号により、「不正の競争の目的で、その営業秘密の管理に係る任務に背き、その営業秘密を使用し、又は開示」する行為も刑事罰の対象となっている)。
営業秘密の保護はこれで十分である。

2 民事責任を負わせることで十分である
 
現行法においても、不正行為の差止め、損害賠償が認められている(法3条、4条)。
 さらに、企業と労働者が秘密保持契約を締結した場合には、その契約が有効であるかぎり、企業は労働者に対し、秘密保持契約違反を主張して、損害賠償請求を行なうことが出来る。このような民事責任を負わせることで、営業秘密の保護は十分と考える。

第6 おわりに
 
以上の事実からすれば、職業選択の自由と営業の自由という両法益の調整内容として現行法以上に退職者に対してまで処罰規定を拡大する必要はなく、現行法で十分に対応しうるものであり、罪刑法定主義の視点からも退職者に対する処罰規定の導入には反対である。また本問題は、労働契約における権利義務に関わる優れて労働法的な慎重な検討を要する重要課題であり、現在検討が進められている労働契約法制の具体化に先行して、立法化を提起することは極めて不適切であると思料する。

以  上