労働基準監督業務の民間委託に関する意見書

2017/6/5

労働基準監督業務の民間委託に関する意見書

2017年6月2日
日本労働弁護団
会長 徳住堅治

1 2017年3月9日、規制改革推進会議は、長時間労働などに対する監督を強化するために、労働基準監督業務に民間活用を行うことを検討することとし、それに向けて、会議の作業部会として「労働基準監督業務の民間活用タスクフォース」(主査八代尚宏昭和女子大学グローバルビジネス学部特命教授)を設置することを決定した。タスクフォースは3月16日から検討を開始し、5月8日、「労働基準監督業務の民間活用タスクフォース取りまとめ」を公表した。
 取りまとめは、労働基準監督署の実施する定期監督の実施率が、総事業場に対して3%程度に止まり十分な監督が行われると言い難いこと、定期監督実施対象の事業場の違反が約70%と高いことを指摘する。また、今後罰則付きの時間外労働の上限を導入する労働基準法改正法案が提出されることになっており、法規制の規制強化が求められることになるとする。これらを背景にして、労働基準監督官の業務を補完できるように、民間活用の拡大を図ることが不可欠であるとする。
 そして、そのために、①民間の受託者(入札により決定し、契約により、秘密保持や利益相反行為・信用失墜行為の禁止を義務付け)が、36協定未届事業場(就業規則作成義務のある事業場、同義務のない事業場)への自主点検票等(36協定の締結状況、労働時間上限の遵守状況、就業規則の策定、労働条件明示の状況などの点検票等)の送付や回答の取りまとめを行い、指導が必要と思われる事業場や回答のない事業場等について、同意を得られた場合に、労務関係書類等の確認及び相談指導を実施する、②労働基準監督官は、これらに応じなかった事業場及び、確認の結果、問題があった事業場に必要な監督指導を実施する措置を講じるべきであると規制改革推進会議に報告した。民間委託先については、社会保険労務士等とする方向で検討がされている。
 これを受け、規制改革推進会議は5月23日、「規制改革推進に関する第1次答申~明日への扉を開く~」において、36協定未届事業場であって就業規則作成義務のある事業場については平成32年度までに措置、それ以外の事業場については平成33年度以降に計画的に措置することとされた。

2 しかし、以下の理由から、タスクフォース及び第1次答申の示すこれらの措置は適切でなく、労働基準監督業務を民間委託するべきではない。
(1) ILO事務局の担当部署は「先進工業市場経済国では、労働監督官1人辺り最大労働者数1万人とすべきと考える」としている(2006年11月ILO理事会「Strategies and practice for labor inspection (GB297/ESP/3)」)。しかし雇用者1万人当たりの監督官の数は、ドイツ1.89人、イギリス0.93人、フランス0.74人に対し、日本では0.62人であり、先進国の中ではアメリカ0.28人に次ぐ低さで、上記ILO基準に遠く及ばない。また各種労働相談においても、労働基準監督署に賃金未払、長時間労働等の相談をしても、調査や指導が進まないという声は頻繁に聞かれるところである。これらのことからすると、日本において十分な労働監督行政を確保するために、ILO基準を満たすように労働基準監督官の増員こそが急務である。

(2) 1947年に採択され、我が国が1953年に批准したILO第81号条約(工業及び商業における労働監督に関する条約)は、工業的事業場及び商業的事業場における労働監督制度の保持を義務付け(第1条)、監督職員は分限及び勤務条件について、身分の安定を保障され、かつ政府の更迭及び不当な外部からの影響と無関係である公務員でなければならないとしている(第6条)。また、労働監督官は、監督対象事業場に立ち入る権限、調査・検査・尋問を行う権限を有するものとしている(第12条)。すなわち、公平中立に業務に当たることのできる公務員が、労働監督業務を行うために必要な権限や強制力を背景にして労働監督業務にあたるべきとされている。
 つまり、労働基準監督署の業務は、公務員たる労働監督職員が行うべきことが原則であり、業務の民間委託を検討する前に、労働基準監督官を含む労働基準監督署の職員を増員することがまず検討されるべきである。この点、取りまとめや第1次答申は、「民間活用の拡大を図ることが不可欠である」とするが、労働基準監督署職員の増員を検討することもなく、民間活用の拡大すなわち民間委託が「不可欠」であるとは言えない。
 特に、労働基準監督官の定員数は、平成28年度は3241人と、平成9年度の2640名以降増員となっているが、その一方で労災補償業務を担当する事務官や労働安全衛生業務を担当する技官など他の労働基準監督署の職員の定員数は平成28年度1628名と、平成9年度2323名から大きく減少している。これによる監督業務以外の業務のしわ寄せが労働基準監督官に及び、監督業務に注力することを困難にしていることは想像に難くない。平成20年10月以降、上記事務官と技官の新規採用は廃止されており、事務官・技官の減少は政策的になされていることが窺われる。民間活用の拡大を図る以前に、事務官・技官の増員、または労働基準監督官の増員が図られるべきである。

(3) 仮に社会保険労務士に対し、労働基準監督官の業務を補完するために業務委託を行った場合の実効性も問題である。
取りまとめや第1次答申が想定するのは、社労士が36協定未届事業場に自主点検票等を送付し、その回答の取りまとめを行い、指導が必要と思われる事業場や回答のない事業場について、同事業場の同意の上で労務関係書類の確認・相談指導を実施し、これを経ても問題がなお解消されない事業場について、労働基準監督官が必要な監督指導を実施するという2段階のプロセスである。
 しかし、労働監督行政は、労働基準監督官に与えられる事業場を臨検し、帳簿や書類の提出を求め、必要な尋問を行う権限や、労基法違反の罪に対する逮捕権等司法警察員としての権限を背景として行われ、そのような強制力がその実効性を支えているところ、民間の受託者にはこれらの権限が与えることは想定されず、あくまで対象事業場の同意を得ての書類の確認や相談指導に止まる。現に労基法等に違反している事業場が直ちに任意に協力をすることは考えられず、民間の受託者による上記業務の実効性には疑問がある。タスクフォースの八代主査は、労基署が行う定期監督を社労士等に委託することで、監督官を寄り重大な違反の可能性の大きな申告監督業務に重点的に配置できるのではないかという提案を行っている。しかし、現状では定期監査で約70%の違法が発覚して機能しているのに、民間の受託者による上記業務が定期監査に代わるものと位置付けられてしまえば、違反事業場に対する適切な監督がなされなくなる恐れがある。

(4) 加えて、上記の2段階のプロセスを経ることで、労働基準監督官がその強制力を背景に、労働法令違反を犯している可能性のある事業場に対する調査を行うまでに生じるタイムラグを利用して、証拠の隠滅が行われる懸念もある。これではかえって労働監督行政の実効性を阻害することになりかねない。

(5) 民間の受託者として、社労士が想定されていることも問題である。社労士は、企業を顧客先として、その労務管理や社会保険・労働保険の諸手続を取り扱っている。企業が従業員と労働トラブルになった際には、企業側に立ってこれを補助する社労士もいる。一部の社労士には「労働基準監督官対策」を行うとして営業を行っている者もいる。このような立場にある社労士が、実際の、または潜在的な取引先・顧客先である企業に対して、積極的に労務関係書類の提出を促し、相談指導を行い、必要に応じて労働基準監督官による監督指導につなげていくことができるか、疑問である。

3 以上述べてきたとおり、労働監督行政を実効的に行えるような体制を整備・拡充していくことは必要なことである。しかしそれは、原則としては本来的な労働監督行政の担い手である労働基準監督官及び直接・間接に労働基準監督官の業務を支える労働監督職員の増員によって行うべきである。そうすることがILO81号条約にも適合するし、実効性を上げられるからである。取りまとめ及び第1次答申の提案する措置はその実 効性や相当性に疑問があり、適切な措置であるとはいえない。
 日本労働弁護団は、取りまとめ及び第1次答申が示す労働基準監督業務の民間活用等に関する措置を実施することに反対し、実効的かつ適切な労働監督行政が行われるよう、少なくともILO基準を満たすように労働基準監督官を増員することを求めるものである。

以上